2010 和泉自泰

博士論文要旨

ナノフロー液体クロマトグラフ/質量分析計による植物代謝産物の高感度定量分析法の開発

大阪大学大学院 工学研究科 生命先端工学専攻 生物資源工学領域 福崎研究室

和泉自泰

第一章 緒論

近年,液体クロマトグラフ/質量分析計 (LC/MS,LC/MS/MS) はプロテオミクスやメタボロミクス,薬物代謝分析など幅広い分野で使用されており有用な分析手法として認知されている.

しかしながら,生体内代謝物の測定を行う場合,それらの存在比が大きく異なることが観測を困難にさせる場合がある.例えば,植物ホルモンのような微量生理活性物質はその内生量がpmol/g FW,もしくはそれ以下であり,通常の一次,二次代謝産物の内生量 (nmol–mmol/g FW) の10–9–10–3微量となる.また,シングルセル代謝物分析のような出発材料が制限される場合も同様に,細胞内に多量に存在する代謝物でさえも検出することは難しい.つまり,分析化学の側面から考えた場合,これらの問題を解決するためには「分析系の高感度化」が最重要課題に挙げられる.そこで,本研究ではナノフローLC/MS/MSによる高感度定量分析系を確立し従来技術では到達できなかった植物代謝における応用研究を展開することを目的とした.

第二章 微量生理活性物質の網羅的高感度定量分析系の構築

近年の植物ホルモン研究において,ホルモンネットワークを介した代謝制御機構を解明するために,網羅性を伴ったより高感度の定量分析手法が望まれている.一方,LC/MSの高感度化を実現する一般的な手段としてカラム内径のスケールダウンが挙げられる.そこで,私は植物ホルモン類の網羅的高感度定量分析のために内径75 mの溶融石英管をナノスプレイヤー形状に加工し,内部に3 mの逆相担体を充填することでスプレイヤーチップ一体型ナノフローLCカラムを自作し分析系の構築を行った.また,一体型カラムを使用したナノフローLC/MS分析系の構築において,これまで報告のない負イオンモードでのイオン化,定量性,耐久性に関する項目を中心に検討を行った.植物ホルモン類は酸性成分であるオーキシン (IAA),ジベレリン (GA1, GA3, GA4, GA7),アブシシン酸 (ABA, ABA-GE),塩基性成分であるサイトカイニン (Z, iP, DHZ, ZR, iPR, DHZR, ZOG) の合計14種を測定対象とした.質量分析計での観測手法は検出感度と分子の選択性を向上させるためにMS/MS,即ちマルチプルリアクションモニタリング (multiple reaction monitoring, MRM) 法を採用した.また,絶対定量を行うために重水素標識した測定対象物を試料抽出前に添加する安定同位体希釈法を用いた.さらに,測定時の生体由来マトリックスの影響を軽減するために抽出・精製法を検討した.

ナノフローLC/MS/MS分析系とサンプルの前処理法を最適化することにより,実用サンプルに適応した植物ホルモン類の網羅的高感度定量分析系を確立した.

第三章 植物ホルモン分析法の生命科学分野への応用

第二章で構築したホルモン分析法の利点は,これまで検出が困難であったサンプルからの定性・定量情報が取得できること,出発材料を軽減できることであった.したがって,本章では構築した分析法の利点を生かした応用研究を展開した.

まず,窒素代謝のシンクソースバランス制御に関してサイトカイニンの関与を検証した.シンク器官からのシグナルを遮断した際に,ソース器官であるロゼット葉で窒素代謝に重要なアミノ酸と関連する遺伝子の発現量が増加した.さらに,サイトカイニン合成のキー酵素であるイソペンテニルトランスフェラーゼをコードする遺伝子 (AtIPT3) の発現量が特に主脈において高いことを確認した.そこで,ロゼット葉の主脈とその他の部分におけるサイトカイニンの定量分析を実施した.その結果,シグナルを遮断した際に葉の両部位において数種のサイトカイニン類の内生量増加が確認された.少量サンプルからのサイトカイニンプロファイリング分析により,窒素代謝に関わるアミノ酸や遺伝子発現変化の一部がサイトカイニンによって制御されることを見出した.

続いて,網羅的プロファイリングの応用例として,遺伝子組換えによる代謝改変時に代謝上でホルモン類のクロストークが起こるのかを検証した.実験に使用したタバコ遺伝子組換え体ZW-2 (Brevundimonas sp.由来CrtWならびにCrtZ遺伝子の葉緑体形質転換) は,葉においてアスタキサンチンを高蓄積させるのに成功したカロテノイド代謝改変体である.WTとZW-2の内生ホルモン量を定量した結果, ZW-2の内生ABA,ABA-GE量はWTに比べ著しく低下していたのに対して,サイトカイニン類とジベレリン (GA4) の内生量は,WTに比べ増加していることが観測された.植物ホルモン類の内生量が変動する際には何らかの生理学的意義があると考えられるため,本結果は人為的なある一部の代謝改変により代謝上でホルモン類のクロストークが実際に起こることを示したものであった.

第四章 高空間分解能を有したファイトアレキシン定量分析への応用

高等植物は病原微生物の接触により様々な防御応答反応を示すことが知られている.二次代謝産物,ファイトアレキシン生合成の誘導は,その中の一つの典型的な抵抗性反応で病原菌の感染阻止に重要な役割を果たしていると考えられている.しかしながら,これらのファイトアレキシンは病原微生物が接触した組織や細胞周辺で生合成されていることが想定されているが,実際にどの細胞でどのように生合成が行われているかの詳細は不明である.そこで,私はエンバク (Avena sativa) 葉肉細胞の多糖性エリシター刺激に対するファイトアレキシン,アベナンスラミド類の時間変化に伴う生成過程を高い空間分解能で定量的な解析を試みた.

葉肉細胞のエリシター刺激に対する応答は,自家蛍光特性と葉緑体の形態変化から3種のセルフェーズに区別でき,時間的にフェーズ0からフェーズ2に進行することが分かった.そこで,蛍光顕微鏡下で各セルフェーズの細胞内容物 (約10 pL) を取得後,ナノフローLC/MS/MSにてアベナンスラミドA,Bの定量を行った.その結果,セルフェーズの進行とファイトアレキシンの生合成量には時間依存的相関があることが示された.また,現状感度では葉肉細胞中に500 mol/L以上含まれる代謝物であれば定量分析が可能であると考えられる.

第五章 総括

第二章において,ナノフローLC/MS/MSによる網羅的植物ホルモン高感度定量分析系,および前処理法を確立した.当該手法は従来手法と比べて約1000倍感度が高くfmol以上の感度を達成した.第三章では,確立した分析手法により2題の植物ホルモン応用研究を実施した.得られた結果から本分析手法の有用性が示された.第四章では,高空間時間分解能を伴った微量サンプルからファイトアレキシンの定量分析を行うことで,これまで未解明であった細胞内での植物感染応答反応の詳細な情報を得ることに成功した.本研究で確立した高感度ナノフローLC/MS/MS定量分析系は,植物代謝研究を大きく前進させるための有用技術である.

論文リスト

本学位論文に関与する論文

1) Izumi, Y., Okazawa, A., Bamba, T., Kobayashi, A., Fukusaki, E. "Development of a method for comprehensive and quantitative analysis of plant hormones by highly sensitive nanoflow liquid chromatography-electrospray ionization-ion trap mass spectrometry." Anal Chim Acta 648(2): 215-225. (2009) 本論文はseparation science 1(11): 41. (2009) にハイライトされた.

2) Igarashi, D., Izumi, Y., Dokiya, Y., Totsuka, K., Fukusaki, E. and Ohsumi, C. "Reproductive organs regulate leaf nitrogen metabolism mediated by cytokinin signal." Planta 229(3): 633-644. (2009)

3) Izumi, Y., Kajiyama, S., Nakamura, R., Ishihara, A., Okazawa, A., Fukusaki, E., Kanematsu, Y. and Kobayashi, A. "High-resolution spatial and temporal analysis of phytoalexin production in oats." Planta 229(4): 931-943. (2009)